ヒトは考えるアシである。

チン

 と言うより、「ヒトは忘れることの出来る(いや、忘れる筈の、ていうか、忘れるに決まってるジャンとか、覚えらんね〜よとか言う)コンピュータである。」とどこかの偉い人が言ったとか言わないとか。(言わねーよ。)忘れちゃってるというより元から覚えてないしみたいな感じで、どうしようもないと思ったり、いや、うまく(都合の良いように)出来てるんだなと思ったり。全部覚えてたらきっと生きていられないでしょうな。でも、もうそろそろ、(前にも言ったかな)人一人の人生を全部デジタル映像または音声で全て記録してしまうことが出来るように成るんじゃないかと思っているのですが、せっかくですから計算して見ましょう。一日24時間×365日×100歳=87万6千時間が一生生きた時間として、今HDDに地デジHD放送(DRモード)で1時間を録画するのに4GB必要だったとすると876000時間×0.004TB=3504TB。たったの3千5百4テラバイトの容量さえあれば、記録できてしまう訳です。今でさえこれだから、もう十何年かしたら本当に当たり前のように、日常を記録しておくようになったりする事が出来るようになるとです。有り難いのか、恐ろしいのか、まあ、単純に考えたら、いやですね。いい思い出だとか、すごく苦しんだこととか、頭の中の記憶にしまってあって、自分が思ったときにふと思い出したりするからこそ、「あの時は良かった。」とか、「こうしておけば良かったな〜。」などと後悔しつつも懐かしんだり出来る。それが全部記録されていたら、美化したり、茶化したり、一人心の中だけで後悔したりすることも出来なくなってしまうじゃないですか。こいつもう忘れてるよなんて思われても、記録があったら知らんぷり((クイズ知らんぷり=>クイズグランプリ)というつまらない駄洒落が流行ったのも、こんな時だからこそ思い出したりする)出来なくなっちゃうじゃないですか。いや、もちろん、自分のまだ可愛かった頃の記録があったりして、「俺にだってこんな時があったんだ。」みたいな使い方も有るかも知れませんが、それも本当だか嘘だか分からないくらいでちょうど良かったりするのかもしれないし。それにしても本当に忘れっぽいもんですな、何に関しても。足首の怪我は未だに傷あり膨れあり、へっこみありで、全快してませんけど。